2018/12/31 非言語化に向かおうとした経緯。

今年の後半からこのBlogに文章を載せる事を避けてきた。その経緯を書こうと思う。いつか、非公開にしてあるがコメントが入った。「あんた、そんな偉そうな事言ってるけど、実際どうなんだよ?」と言ったような。匿名だ、当然のように。インターネット界隈では匿名で書くというのが通例のようにまかり通っている。全く馬鹿らしいし、そういう輩を相手にしている自分も馬鹿らしいと感じた。時間の無駄。

今年、改めて明確になった自分の特性があった。それは「言語」が色々を邪魔して、物事を煩雑にしているという事。メディアだと、Twitterや本、雑誌、新聞。一般的には当たり前に接し、また年代によっては「新聞も読まないの?」と言われるほど当たり前のメディア。

しかし、私にとっての最大かつ、最も影響力のあるものは「音」である。つまり、非言語でのコミュニケーションであり、創造力。これが明確になった。上記に書いた匿名でのコメントのようなものは、世間では炎上のキッカケとなったり、政治的軋轢さえ生む。言語なんだよ。優越感を言語を通して得ようとしている。感覚が敏感なので、私もそれなりに影響を受けてしまう。こんな輩の言っていることにでさえ。これはいけないと感じ、そもそも新聞やら本やらそういった言語を介するものを排除してきたし、自分も出来るだけ言語を使っての発信を避けてきた。

これは私の感覚なんだけども、昭和の教育を受けていたので、新聞を読む、本を読む=良い人間になる。みたいな幻想というか、圧力があった。違和感はずっとあった。私にとって彼らの言う本を読む事より音楽を聴いたり、吹いたりする事の方がよっぽど創造的で豊かなものだった。分厚い本をメガネをかけて読んでいる方が世間ではまともとされていた時代だった。それなりに本は読んできたけど、言ってみれば、何百ページもかけてでしか人は本質を発信出来ないのか?また、何百ページもかけなければ理解も出来ないのか?と。楽器なら、たったの一音で全てが解決する事さえある。それが「音」と感じる。

私はこれを突き詰める事が出来るし、その方が明確に自分を発信出来る。「これはこういうテーマで吹いていて、こういうイメージなんですよ」なんてキャプションは要らない。それに、非言語化でより世界への発信は容易になっていく。AI時代になっていくので、通常の言語を通してのコミュニケーションは機械にだって任せられる。必死にその国の言語を習得しようとしなくたっていい。その余力を楽器へと注ぐことが出来る。人でしか生み出せない音や感覚、これを磨いていくのがこれからの私の作業となっていく。つまらぬ言語に惑わされ、主体性のない人生を送るつもりはない。

このページのカテゴリーは「Blog」となっているが、今後もおそらく写真(非言語)での投稿が多くなると思う。ある意味、生存記録のようなものだ。

近況としては、トランペットのトレーニングの精度がさらに上がり、楽器、身体の能力をより活かす事が出来た年後半であった。これも言葉で「どうだ!すごいだろう!」なんて言うより、聴いてもらえば一発で分かるはずだ。

年末に寄せ、このようなことを書いた。これまで載せた写真は全て私が撮影したものです。楽器を吹いている時、ファインダーを覗いている時が「無」になれる時。