トランペット快調。

きのうの話にも通じるけど、何かをやり続けていると、ふとした時に手ごたえを感じるものだ。最近、ピアニストの本の影響とか、その他でトランペット、フリューゲルホルンの調子がまた良くなっている。

睡眠がしっかり取れているという、生活リズムの問題等もあるけども、思考的にも変化があるようで、より「サウンド感」へと意識が行っているような感じ。管の中を通る空気をより感じられているような、コントロール出来ているような感じ。

天気も良く、出掛けてみた。父を連れて、松本に新しく出来たショッピング・モールへ。田舎ならではの無駄なデカさがあったけど、なかなかよく作られていて、何処かから視察団も来ていた。昼飯をそこで食べたけど、なかなか美味い。しかし、どうしても外食産業の作る飯は、味が濃い。売るには仕方ないけど、このまま突き進んだら、日本人の味覚は完全に変わってしまうだろう。添加物の無いものが食えなくなっちまうんじゃないかと危惧するところ。近頃は、醤油でさえかなりしょっぱく感じるので、ポン酢にしているし、確かに、出来合い物や外食は味が濃いし、色もエゲツない。

耳もそうなっているような気がして仕方ないし、視覚もそうだろう。

その来たるべき破綻時に、我々のようなアコースティックなサウンドがようやく生かされるのです。

努力は報われないかもしれないが、自分を裏切らない。

ずっとトランペットを練習し続けていると、「これは報われるのか?」というのは昔にはよく頭をよぎった。報われるか報われないのかは、結局どうでも良い事とわたしは結論付けた。

そう、全ての人が思った通りにその人なりの努力が報われないのは周知の事実だけど、その努力は決して自分の信念を裏切る事はない、決して。

ごまかして、言い訳をして、理由を付けてやめていく人々。それは自分を裏切る事になっている。多くの人がそうして生きている。そうでもしないと世の中は渡れない場合が多い。

わたしは、自分を裏切る事が出来ない。結果がどうあれ、トランペットを突き詰めて行く。報われようとか、そんな事なんかどうだっていいんだ。ただ、良い音のために、日々進んで行くのみ。それは自分を感じる事と同義なのだ。

先日、デジタルカメラ購入を諦めたばかりだったけど、きのう、写真のようなカメラが11月中旬に発売されるそうです。ホワイトのチェキ・スクエアモデル。ううう、欲しいですね。先行発売で出ていたのは、ブラック。ファッションもそうだけど、ブラックな物が嫌いなのです。今回のは好きなホワイトモデル。ううう。これは行くかも、、、、。

ロシア音楽。

今日の雨の昼下がり、何となくラフマニノフが聴きたくて、AppleMUSICで聴いていた。先日のピアニストの本以来、何かが色々と変わって来たというか、動いて来ているような気がする。J-popは全く聞かなくなってしまい、ジャズでも、早いテンポのより、しっかりと歌いあげている楽曲を選んでいる。しかも、緯度的に高めの感じの人と曲。

そう言えば、これまでクラシック曲を聴いて来た中で、数や印象に残っているのって、ロシア物が多いなーと、今更ながら気がついた。ラフマニノフ、ストラビンスキー、チャイコフスキー、、、、。

「春の祭典」とか「悲愴」とか「ラフマニノフのピアノコンチェルト」とか、、、、。

ワレリー・ゲルギエフのまだ有名になる前の生演奏を聴いているのも影響が大きいのかもしれないですね。たぶん、その「緯度」感がかなり影響しているんだと思うんだけど、「哀愁感」が何かを揺さぶるんですよ。

もともと、南国が苦手で、リズム等もそっちのが苦手なので、そういうのもヨーロッパ圏に引き込まれた要因だとは思います。

そんなこんなで、今は、プロコフィエフのピアノコンチェルトを聴いています。

居場所ってなんだ???

例えばカフェとか、BARとか、家とか、会社とか、愛人の家とか、人にはそれぞれの落ち着く「居場所」があるだろうし、見付けようとしている。その居場所について、わたしはずーっと探していたように思う。けども、結局のところ、そんなものはそもそも無かった。どういう事かというと、そもそもわたしは、物理的な居場所を求めていなかったようだからだ。

ずいぶん小さい頃から、「世の中って生きにくい」と思っていて、どこかに、或いはいつかは、自分の居場所が見つかるか、手に入れようとするか、という可能性を夢見ていた。でも、いつも必ず裏切られていた。そんな場所なんかそもそも無かったから。

で、じゃあ、一体何処に???という事になるんだけど、それは、きっと「わたしの音にある」だろうと言う結論に達した。すごく納得のいく結論だった。四半世紀に渡り練習を重ねてきたトランペットの音の中に実は自分の居場所が存在していた。というか、構築してきたんだろうと思う。自分で。だから、飽きもせずに毎日毎日音を紡ぎ出しているんだろうと思う。そう考えると、筋は通る。

がむしゃらにやっていた頃は、そんな事は思いもしなかったけども。ふと気づくと、音を出している時が一番自分だった。

「場所」というと、物理的な所と脳が勝手に決めつけて、追いかけていたのだけど、「存在意義」という意味合いにおいての居場所ならそんなの物理的だろうが、概念的だろうが関係ない。自分が心地よいポジションが居場所なんだろう。

2日くらい天気が良く、きのうの楽器洗いに続いて、今日はシーツやら布団カバーやらを洗濯もしたり、リサイクルゴミを出しに行ったり。カフェの窓からは秋の空が綺麗に見えます。

楽器4本、一気洗い!

先日購入の本の影響からか、気分を一新したくて、手持ちの楽器4本を一気に洗浄してみました。よく吹くのは月1で洗浄しているので、どれも汚れはないのですが、一気に4本というのは初。フリューゲルホルンは、バルブガイドをオーダーの真鍮製にしていて、その金属カスも出ているはずだったので、ちょうど良かった。

天気が良かったので、洗濯機も回し、秋空を眺めながら。

その本の影響で、楽器練習時も意識がより鮮明で、集中出来るようになっています。自分の信じる音、確信を持って集中していく。良い循環です。

明日の朝の気温は4度くらいまで下がるみたいで、そろそろな季節ですね。

衝撃の本。

きのう購入したピアニストの本。カフェで少しだけ読んだのですが、もう凄く感激でした。これまでに無い本への感覚。ウチの兄がよく言うんだけど、「本に救われる」とか、そういった類の本でした。楽器や人種も違えど、音や音楽や、人生に対する指向性が結構合致していて、まさに「代弁」してくれている本で、自分の根幹を認めてくれているかのような本だなという印象です。自分のこのマイノリティーな思考は、決して間違っていないし、楽器の修練や音に対する考え方も、変える必要もない事も確認出来た。素晴らしい本です。

世の多くは、音や音楽に対し、わたしから見れば適当過ぎるんだけど、そいう世の中で、自分の信念を貫いてトランペット修練に励んで行く事は容易ではない。時に誤解を生むし、人は離れて行く。結構それは辛い事です。でも、どうしても、自分の出そうとする音に対しては「嘘」をつきたくないのです。本の中でも触れていますが、音楽は嘘はつけないのです。そこで嘘をついてしまったら、自分で居る、自分である必要は無いわけですから。

この本を読んでから、改めて自分の手持ちのアーティストの音源を聴き返していますが、何かを訴えて来るサウンドには、やはり何かしらの「エネルギー」が備わっているなと、感じたのです。自信を持ってこれからも自分のサウンド作りに邁進して行こうと思いました。

今の日本は、経済が良く、政治も訳が分からなく、文化が全く育たないように見受けられますが、いつの日か自分のサウンドの重要性が認知されるであろうと、信じるのみです。

音(バイブレーション)が全て。

用事ついでに書店に入り、欲しかった雑誌を手に取るも、内容にガッカリし、店内をウロウロしていると、こんな本に出会った。パラパラと見ていると、「音」に関する記述があり、興味深かったので購入。世の中には考え方の似たような方は居るものだ。

デジタルな物が苦手で、音も同様。基本的にはデジタルサウンドは受け付けません。バーチャルなサウンドもダメ。電子楽器も出来れば避けたい。

周波数の問題ではなく、わたしは音を「バイブレーション」として捉えている傾向があるように思う。アコースティック楽器が大好きだ。弦楽器のあのかすれた音にならない音や、コントラバスの振動、もちろん管楽器のバイブレーション。つまり、「本物」じゃないとわたしの脳は納得がいかないらしい。

ピアニストの本だけど、一見ピアノって誰が叩いても同じサウンドのように思いがちだけど、当然弾く人により違う。そういうところがアコースティック楽器の良さだと思うし、一生を捧げて取り組む価値のあるものだと思う。

わたしのトランペットサウンドの基本ベクトルは全くブレていない。ただそれを一生をかけて突き詰めるだけ。究極的にはフレーズなんか要らないかのように、その「音」だけで聴く人をノックアウトさせたいのです。

「3才児にわたしの音を聴かせて、単純にノックアウトさせたい」のです。

何か子供向けのメロディーとかを吹かなくても。たぶん、そういうのが出来たら、もの凄いんだろうなとは思います。どうしても大人になると、あれやこれやと感情やら批評やら、思い込みが介入してしまって、素直に「音」に耳を傾けられなくなってしまうので。しかも、それを何かを介してではなく、生音で感じて欲しいのです。そういうのを追求していきたい。

無駄な一喜一憂。

割とブレないものがしっかりとあるにも関わらず、結構目の前の事で一喜一憂している自分が居て、それが色々を邪魔しているなーと、今日改めて思った次第です。

音楽性とか、生き方とか、感受性とか、意見とかそういうのは、ずっとブレずに来ているのだけど、猪突猛進型故、例えば新しいカメラが発売されたーとか、新しい楽器のモデルが出たーとか、カッコいい洋服があるーとか、そいう事で脳内がいっぱいになり、抑制が効かなくなっていたのです。それしか見えなくなるわけ。応援してるサッカーチームが点を取ると天下を獲ったようになるし、失点すると、もう死んだようになる。

振れ幅がたぶんものすごく大きいのだと思う。もっと静観して、大局を見られれば良いのだけど、なかなかまだそこまで大人ではないらしい。

最近だと、新しいカメラがどうしても欲しいーとかなったけど、普通に考えて、そこまで写真を日常的に何百枚撮っているわけでもない。数枚程度ならiPhoneで十分だ。そんなように冷静になれるように少しづつなってきている。

熱量の出す場面を音楽へと集中させたい。写真もファッションも本流ではない。あくまで、音楽で到達したい何かがあるから生きているワケだから。

そんな事を台風が過ぎて行く空を眺めながら思ったのでした。

 

酒、タバコ、カフェインを止めて思う事。

2日前から喉がおかしくなりだしたので、うがい薬を買い、風邪薬も飲んでます。通常の風邪ですが、そこまで大変でもなく、静かに過ごしております。

昨年から酒タバコ、今年からカフェインを摂取しなくなりました。おかげで色々が良くなっています。そこで思うのは、通常の人の場合、酒やカフェインである意味脳を「強制的」に「高揚」させているんだと思うけど、わたしにはそもそもそれが必要ないから、特にそれを求める事を止めたんだと思う。

どう言う事かと言うと、トランペットのLiveをしてると、結果もの凄いHigh状態になっているはずなんです。常人では掴み得ないくらいの気持ち良さですね。つまり、酒なんかの力を借りずに、めちゃ凄い何かが脳に出ているのです。

むしろ、酒等で勝手に脳が支配される事を嫌っているわけです。気持ち良さは自分で作り出せるのです。他には代えがたい感覚です。

日々の雨っぷりに萎えてます。日光が欲しい、、、、。

LEDとかデジタル映像が見られない、、、、。

トランペットという生楽器をやり続けているのは、必然的なものだったのだろうと思う。

今だに、電子楽器には馴染めないし、LED照明(イルミネーション含む)、デジタル映像、デジタルアニメ、デジタル映画、、、、脳が拒絶します。

信号機がLEDになっているけど、どうもアレもダメです。車のLEDランプもダメ。

これからイルミネーション盛んな時期になっていくけど、人々はあんなん見ても何も感じないどころか、喜んで見に行くのが全く理解出来ない。

たぶん、わたしみたいなのが少数派なんだろうけど、わたしは出来る限りアナログな表現にこだわりたい。トランペットはバイブレーションなんだ。

排除していくのは難しい時代になっているけど、出来るだけ生の色々を体感して行きたい。

いつか、そういうのが確実に世の中に必要にはなるので、わたしは生楽器を止めない。